犬のこと ③「ボク」最終章
ボクは私が小学校4年生の3学期の頃、家に来た。
私の結婚が決まり家を出ることになる2ヶ月前に息を引き取るまで、16年にわたってボクは私のそばにいてくれた。
ボクは外飼だったが、家族が揃う夕食時分になると家にもよく入れてもらっていた。
ボクはおよそ飼い犬が覚えるであろう芸をほぼ全てすぐに覚え、美味しいものが目の前にあったりするとこちらから指示を出さなくても芸のオンパレードを見せてくれたりもした。家族みんなが笑顔になった。
お手、おかわり、伏せ、もっと伏せ、腹ばい、一回転、立ち上がる、立ち上がって回る、待て、下がれ、ハウス…等など
ボクは人の目をしっかり見て、そのとおりしてみせようとした。
私がワンと言うと、ボクもワンと言う。
私がワンワンワンと言うと、ボクもワンワンワンと数も合わせてくる。
私があくびを大げさな感じでして見せると、ボクも大きく口をあけてあくびをする。
ある日、私は少し意地悪な気分になってこう言った。
「ご飯ほしいんやったら、ご飯ちょうだいって言うてみ、ほれ、
ご飯ちょうだい は?」
いくらなんでもこれは無理でしょう。ボクはワンコなのだから。しかし、ヤツはすごいヤツです。なんと、
「ごぁん とぅぉだゎぃ」
と、低い声?で言ったのである。びっくりしたが確かにそう言った。
そういうことを何度か繰り返していたある日、私は後ろから話しかけられた。
その時は不意だった。私は犬の相手をしていたわけではない。
「ごぁん とぅぉだゎぃ」
「え?」
振り返るとボクだった。ちょっと怖かった。犬がしゃべりかけるなんて自分の頭がどうかなったのかと怖かった。
だからそれから、しゃべることを要求するのはやめた。
しかし随分あとになって、同じように人間の口真似をして言葉を発する犬がテレビで紹介されているのを見た。
あれはやっぱりそうだったんだと、その時思った。
そのテレビが放映されたのは私がもう自分の家庭を持ってからだったので、ボクはもういなかった。
今でも私は時々ボクを思い出す。
ボクが亡くなった時、私は26歳になっていた。8月の末。
出勤のため朝の支度を急ぐ私はふと視線を感じて止まった。
ボクが私を見つめていた。
もう弱って自力で歩けなくなって顔を上げることも少なくなっていたのに、この日はすくっと頭を上げじーっと私を見ていた。
ここ一、二週間母と交代で仕事を休みボクの介抱をしていたが、なんとなくわかった。
もうお別れなんだ…と。
痩せて力ないボクを抱くと、ボクは安心したようにゆっくり目を閉じた。それから間もなく家族に看取られてボクは生涯を閉じた。
私をじーっと見つめたあのかわいい目を、今も私は忘れない。