4歳の頃
4歳の頃と言えば、思い出すことがある。
私は4歳の時、大阪駅地下で両親とはぐれてしまった。
妹が2歳で母はそちらに気を取られ、私を見とかなきゃならなかった父はほんの一瞬の間それを怠り、私はごった返す大阪地下で人混みにのまれて消えた。
両親は必死に探し、警察にも届けて一緒に探してもらったが見つからず、とりあえず帰宅して連絡を待つということにしたらしい。
で、家にたどり着くと、玄関先でしゃがみこむ私を発見!
何が何だか分からないけど、私は強く抱きしめられた。
そう、私は切符もお金も持たない4歳児だったけど、一人で家に戻っていたのである。
家は東淀川区。東淀川駅からは徒歩10分くらいの所に家はあった。
よほど両親はこのことが忘れられない出来事だったらしく、何度も何度もこの話を家族でしていたので、これはきっと間違いない事実だったのだろうと思う。
まだ数字もちゃんと読めない私に母は、「お団子2つのマークの階段を上がって電車に乗るんやで。降りる駅は次の次」って教えていた。それがよかったんだと今でも自慢げに話す。
ちなみに「お団子2つ」とは数字の8のことである。
しかし、迷子になった記憶と長く待ってその後強く抱きしめられた記憶はちゃんとあるが、その途中の記憶は 実は全くない。
もしかすると、
パラレルワールド… なのかもしれない……
犬のこと ③「ボク」最終章
ボクは私が小学校4年生の3学期の頃、家に来た。
私の結婚が決まり家を出ることになる2ヶ月前に息を引き取るまで、16年にわたってボクは私のそばにいてくれた。
ボクは外飼だったが、家族が揃う夕食時分になると家にもよく入れてもらっていた。
ボクはおよそ飼い犬が覚えるであろう芸をほぼ全てすぐに覚え、美味しいものが目の前にあったりするとこちらから指示を出さなくても芸のオンパレードを見せてくれたりもした。家族みんなが笑顔になった。
お手、おかわり、伏せ、もっと伏せ、腹ばい、一回転、立ち上がる、立ち上がって回る、待て、下がれ、ハウス…等など
ボクは人の目をしっかり見て、そのとおりしてみせようとした。
私がワンと言うと、ボクもワンと言う。
私がワンワンワンと言うと、ボクもワンワンワンと数も合わせてくる。
私があくびを大げさな感じでして見せると、ボクも大きく口をあけてあくびをする。
ある日、私は少し意地悪な気分になってこう言った。
「ご飯ほしいんやったら、ご飯ちょうだいって言うてみ、ほれ、
ご飯ちょうだい は?」
いくらなんでもこれは無理でしょう。ボクはワンコなのだから。しかし、ヤツはすごいヤツです。なんと、
「ごぁん とぅぉだゎぃ」
と、低い声?で言ったのである。びっくりしたが確かにそう言った。
そういうことを何度か繰り返していたある日、私は後ろから話しかけられた。
その時は不意だった。私は犬の相手をしていたわけではない。
「ごぁん とぅぉだゎぃ」
「え?」
振り返るとボクだった。ちょっと怖かった。犬がしゃべりかけるなんて自分の頭がどうかなったのかと怖かった。
だからそれから、しゃべることを要求するのはやめた。
しかし随分あとになって、同じように人間の口真似をして言葉を発する犬がテレビで紹介されているのを見た。
あれはやっぱりそうだったんだと、その時思った。
そのテレビが放映されたのは私がもう自分の家庭を持ってからだったので、ボクはもういなかった。
今でも私は時々ボクを思い出す。
ボクが亡くなった時、私は26歳になっていた。8月の末。
出勤のため朝の支度を急ぐ私はふと視線を感じて止まった。
ボクが私を見つめていた。
もう弱って自力で歩けなくなって顔を上げることも少なくなっていたのに、この日はすくっと頭を上げじーっと私を見ていた。
ここ一、二週間母と交代で仕事を休みボクの介抱をしていたが、なんとなくわかった。
もうお別れなんだ…と。
痩せて力ないボクを抱くと、ボクは安心したようにゆっくり目を閉じた。それから間もなく家族に看取られてボクは生涯を閉じた。
私をじーっと見つめたあのかわいい目を、今も私は忘れない。
犬のこと ②「ボク」
「ボク」は雑種の中型犬だった。名前からもわかるようにオスである。
家の前でいつも家族を守ってくれていた。知っている人が通っても決して吠えないが、知らない人が通ると通り過ぎるまで吠えていた。郵便屋さんや近所のおばちゃんや私の友達には吠えない。押し売りには吠える。
父の帰宅はどうして分かるんだろうというぐらい早くからしっぽを振って、いつもしばらくすると父は帰ってきた。するともうちぎれんばかりに尾を振る。
散歩は、小学校高学年になっていた私と行くことが多かった。
時には遠出をした。私は自転車に乗り、ボクはその横を走る。もちろん綱でつながっているが、引っ張りすぎたり、途中自分の用事で勝手に止まったりすることなく、ボクは上手に伴走できる犬だった。
たまには家族みんなで自転車で遠出することもあった。
ある日は四国の田舎からおばあちゃんが来ている時に遠出した。
祖母と母と私と妹、そしてボク。
自転車の順番は私とボク、そして妹、母、最後におばあちゃん。
自分の用事で勝手に止まらないボクだったが、この日は違った。曲がり角に差し掛かるとボクは自ら止まって後ろを見る。最後尾のおばあちゃんがちゃんとついてくるのを見ると走り出す。
群が一体となって行動できているか、遅れてついて来れない個体はないか確認して前に進んでいたのである。私はそれがわかって彼を尊敬した。リーダー犬としての素養がある犬だった。
そして彼は自分の遺伝子を残すことにも情熱を燃やした。
そのころ私は中学生になっていたが、ボクがバス停近くにあるうどん屋のスピッツ犬チビに恋していたのを知っていた。散歩に行くたびに、そこを通ろうとしたし、チビの匂いを嗅ぎたがったし、チビを見つけると父の帰宅の時より激しくしっぽを振った。
ある夜、彼は決行した。
自分と小屋とをつなぐ太い強いゴムの紐を噛み切り脱走を成功させた。チビのもとに行ったのは言うまでもない。夜中のことだったので私に詳細はわからないが、行ったのは間違いない。朝方、彼は腰を抜かし帰ってきた。後ろ足は立てない状態で前足2本だけで引きずるようにして帰ってきた。
後で母から聞いた。
ボクはやっぱりチビのもとに向かい、こっそりうどん屋の庭に侵入し、チビと愛を交わしあった。そこでうどん屋のおっちゃんに気づかれ、つながってる真っ最中のときに棒で腰辺りを叩かれたのだ。離れるまで。もちろんチビは叩かれていない。そしてボクは這いつくばって時間をかけて我が家の玄関先まで帰ってきたのである。
しかし願えば叶うものである。
彼の遺伝子は未来へとつながった。チビは妊娠し、数カ月後5匹もかわいい子犬を産んだということを私は知る。うどん屋のおっちゃん家族は全てを受け入れ、この子犬たちのそれぞれの暮らす先を見つけてくれた。
そしてボクの腰もやがて治り、私や家族とまた楽しく散歩したり遠出したりできるようになったのである。
ボクは強くて賢い犬だった。
犬のこと ①
私が小学校4年生の冬休み中に私たち家族はまた引っ越した。
やっと社宅を出て念願のマイホームを手に入れたのである。
そこは大阪の北摂地方。
庭はなく2階建ての小さい家だった。
転校した小学校は子供の足で40分もかかるところにあった。
西宮の小学校はその頃すでに給食の牛乳は瓶に入った本物の牛乳であったが、ここは違った。
ダッシフンニュウ。。脱脂粉乳だった。これがとてもまずい。ぬるいこのミルクを給食当番が金物のお椀についでくれるのだが、うすく白く濁るこの液体は恐ろしくまずい。
だから私は「いただきます」の号令がかかると、一番最初に、一番お腹の減っている時に、目をつぶって、息を止めて、一気に飲んだ。涙が出た。
だがこの町にはまだまだ田園風景が広がっていたし、隣近所との付き合いもあり、古き良き日本が残っていた。
本題に戻ろう。
社宅のマンションでは飼えなかった犬を私たち家族はここで飼うことになる。
犬をほしがる妹と私に、父は会社に迷い込んだ子犬を連れて帰ってきてくれた。スピッツが入っているだろう雑種犬で毛がふさふさしていた。白地に茶色のぶちのあるオスのワンコだった。
名前は両親がつけた。
「ボク」
よほど男の子がホントは欲しかったんだなと子供ながらに思った。
ボクはその頃の通例で外飼である。犬小屋に鎖でつながれた。父はこれが可愛そうだと思ったようで会社から強いゴムの紐を長めに持って帰ってくれ、鎖と交換した。
この強いゴムでボクは体を鍛えた。できるだけ遠くまで行こうとこのゴムを引っ張り、限界まで行くとビヨヨーンと引き戻されていた。
やがてボクは強くて賢い犬になっていった。
つづく
カエルのこと
東淀川の長屋から西宮の社宅に私たち家族は引っ越した。
西宮の社宅は今で言うマンションで、5階建てだった。私たちは3階に住んだ。
ここは今までとは随分違っていた。
木曜日になったらお風呂屋さんに家族4人で行っていた長屋とは違って、風呂は住まいの中にあったし、トイレはなんと水で汚物を流してくれるスグレモノだった。そう水洗トイレ!
ここに私は年長さんから小学校4年生の2学期が終わるまで住んだ。
日本は高度成長をまっしぐら。私たち家族も少しずつ豊かになっていった。マンションの敷地内にはけっこう広い庭もあり、春になると白詰草が一面に咲いた。そこでよくアマガエルを見つけて私は遊んだ。
引っ越して半年ほど経ったある日、母は私にオルガンを習わせた。
なにせ社宅である。父は会社で競争、母は子供で競争の世界だ。
私にはそれほどの意欲も競争心もなかった。
でも曲がひけるようになると誰かに聞かせたくなる。
私はいいことを思いついた。
「今日見つけてきたカエルくんに聞かせてあげよう」
オルガンの真ん中あたりにカエルくんを連れてくるとちゃんとカエル座りをして聞いてくれた。。
…のはずだった。私の習いたてのヘタクソな曲が架橋に差し掛かった時、事件は起きた。
カエルくんはどう思ったかぴょんぴょんと端っこに移動し、オルガンの端にある隙間からオルガン内部に入り込んでしまったのだ。
私は呼んだ。何度も。
「カエルくーーん」「出てきてーー」
音沙汰はなかった。それからしばらく毎日呼んだが音沙汰はなかった。
父にも母にも助けを求めたが、忙しい彼らに聞く耳はなかった。
社宅の上階からピアノの音が聞こえてくるようになったある日、父母は私にピアノを買った。
私は小学2年生になっていた。
オルガン教室からピアノ教室に昇格?である。
そしてオルガンは解体して捨てられることに決まった。
解体作業の日のことをよく覚えている。
父にバラバラにされていくオルガン。私は黙って見ていた。
「きっといる」
そう思って固唾を飲んで見ていた。
鍵盤の内部があらわになった時、3年ぶりに私はカエルくんを見つけた。
あの日私がカエルくんを置いた真下あたりに彼はいた。
ちゃんとカエル座りをして。そのままの形でカエルくんはミイラになっていた。
オルガンを処分したあと、父と私は白詰草の横にカエルくんを埋めた。
「ごめんなさい」
猫
猫は私より前から家にいた。
私がそれを猫だと気づいたのは3歳になった頃だった。
猫はジローとよばれていた。グレーっぽいトラ柄の雑種猫ジロー。
その頃私たち家族は東淀川の長屋に住んでいた。昭和30年代、人間も食べるのに精一杯だったから猫にちゃんと餌をやっていたかどうかは疑わしい。
私がもうすぐ4歳という頃だったと思う。ある夏の朝。
玄関の引き戸は開け放たれ、私は玄関上がりのところに座って外を見ていた。
すると、右から道をジローが歩いて来た。ジローは外から私の方を見て立ち止まった。
ちょうど開け放たれた玄関口の真ん中で止まり、口に加えたものをおもむろに地面に置いた。
私は見た。それはネズミだった。ジローが仕留めたネズミ。
きょとんと見る私にジローは確かに言った。
「どうだ。今日の食料だ。しっかりと仕留めたぜ。おまえもそのうち出来るようになれよ」
確かにそれが伝わってきたのだ。確かに。それを私に伝えた後、ジローはまた大事そうにその死んだネズミを口にくわえ、左に消えて行った。
私はその時の光景をずっと覚えている。
昭和38年の冬、私たち家族は西宮の社宅に引っ越すことが決まっていた。私は5歳になっていた。引っ越し準備がほぼ終わっていたように思う。いつもと違う家の様子を覚えている。私は近所に住む友達 みきちゃんと近くの駄菓子屋さんに行った。みきちゃんはうちより少しお金持ちの子だったので私には買えない高めのお菓子を買う。いつもうらやましかった。
その日もみきちゃんは10円のキャンデーを、私は5円のキャンデーを買って帰る途中、道端の側溝の中に、両目が飛び出てしまった死んだ猫を見つけた。その頃我が街界隈でも車の行き来が増え、猫は車にはねられ死んだのだ。みきちゃんは、
「この猫、ジローちゃう」
と言った。
私は応えず急いで家に戻った。
ジローはいなかった。
間もなく私たち家族は引っ越した。